背骨ブログ2

あなたの背骨をポキっと

人はいくつになってもヒマな生き物なのかも

タイムラインでこんなツイートが流れてきた。

これをみて思いだしたのがこれ。

こういう人って不思議で、忙しいと言ってる割に、他の人を見てディスる余裕はあるんですよね。お金がないって言う割にパチンコ行っちゃうみたいな感じ? ちがうか。

ディスりたくなる気持ちは分からなくもないけど、ディスったところで自分にはなんのメリットもないと思うんです。

そんなヒマがあれば、もっと別のことに視点をもっていった方が建設的じゃないかなー。ダンスも原稿も、下を見るより上をみていい所を盗んだ方がよくないですかね。

余談ですが、ダンスをしてたとき、「この人のダンス合わねぇわ!」って思ってた人、何人かいます。 だけど数年後、実力を伸ばして大会で優勝していたり、世界大会いったりしたダンサーもいるから、自分の感覚なんて本当にあてにならんなと思いました。

愛や熱だけでコンテンツは成り立たない

先日こんなことがあった。

相手「正しい日本語とかじゃないんだよ。コンテンツには熱や愛が必要なんだよ」

僕はWebメディアの編集者をやっている。とは言ってもまだ歴2年弱のひよっこ中のひよっこだ。それまでライターをやっていたわけでもない。まったく違う業種からの編集者だ。正直、編集者と名乗ることにおこがましさを感じているが、ここ数年のオウンドメディアブームで僕のように未経験から編集者になるケースは多いんだと思う。

じつは、冒頭の「日本語とかそんな大事じゃないから」みたいなことを立て続けに耳にした。じつは少しだけ不安になって、本当に必要ないのかな? と思って改めて考え直してみた。時間にして30秒ほどだったが、そこででた結論は、「んなわけあるかい!!」だった。

結論から言おう。熱や愛は、読者にコンテンツの理解を深めるためのただの手段だ。意味の分からない日本語を使えば、どんなに熱や愛を込めたところで読者には届かない。

こういう人たちの文章は往々にして読みづらい。熱がこもっているのは分かるのだが、同じ内容を繰り返していたり、薄い内容をながながと書いたり、書いた本人にしか理解できない例をだしたりする。基本的に、書いた本人にしか分からないハイコンテキストな内容なのだ。

さて、僕ら編集者の仕事のひとつに、文章を直す作業がある。文章を直す目的は、読者に気持ちよく最後まで読んでもらうことだ。趣味で直している訳ではない。紛らわしい表現を使っていないか、誤解を与えていないか、同じような内容を繰り返していないか、内容は薄くないか、など見るべきところは実にたくさんある。

ここで文章を道路と定義してみよう。ぼくら編集者が原稿を直す作業は、獣道や砂利道をアスファルトできれいに舗装する作業に例えられると思う。つまり、歩きづらい道を歩きやすくして、その道を通る人が快適に目的地までたどり着いてもらうための作業だと言える。

冒頭の正しい日本語がいらないと言っている人たちは、「ぼくたちが目的地までたどりつけるように、がんばって獣道をつくりました。道中には差し入れも用意しているし、自転車だって用意しています。ぜひお通りください」と言っているようなものだ。誰がそんな道を通るんだバカ! とはいえ、通ってくれる物好き人もいるかもしれない。しかしそこは獣道。差し入れをもらったところで、自転車に乗りこなすのは難しいだろうし、ガイドがなければ迷子になるかもしれない。仮に運良く獣道を抜け、目的地までたどりつけたとしても、通った人はかなり疲弊する。ほとんどの人は途中で脱落、もしくは入り口を見て通るのをやめるはずだ。

日本語が必要ないといっている人は、読者に対し疲弊することを強いていることに気づいていない。作り手の愛だの熱だのは、まともな日本語があったうえで初めて人に届くし理解される。この文章は愛があるんです! 熱をこめたんです! なんてものはひどく一方通行な思いで、読む人からすれば至極どうでもいいことなのだ。

もちろん、愛だの熱だのを否定するつもりはまったくない。あった方がいいに決まっている。しかしそれは押しつけるものではないはずだ。読者が読んでこの文章は愛にあふれているよね。とか、すごい熱量を感じるよね。とか、自然に感じてもらうものだ。何度でも言うが、その熱や愛を届けるためには正しい文法や日本語が必要だ。そのために編集の力が必要なのだ。正しい日本語をおろそかにして、読者に熱や愛が届くことはない。

言いたいことをまとめよう。 「読者のことを考えるなら、正しい日本語を使え」これに尽きる。

ちなみに、日本語も追求すればどんどんマニアックなところにいく。そんなことは承知している。そして正しい日本語だけをみていれば読者の目線にたったコンテンツになるのかと言えば、もちろんそんなことはない。正しい日本語もまた、読者にとって有益なコンテンツにするために必要な要素の1つに過ぎないのだ。